「恩に着るから。 なっ、さくら、金を上野の呑み屋に届けてくれ、未来の車で」
こんな時間によくそんな夢語れるわね、無銭飲食なんて、呆れてモノも言えないわ。
「そう怒んなよ、もうしない、二度と、こういうこと。
未来の車なら、狭い呑み屋町でも、横歩きして入ってこれるだろう?」
今まで何べんその夢語ったと思うの、もう甘やかさないから。
「あ、そうか、じゃ、俺の未来の車がどうなってもいいんだ、ねっ、分かった!」
そんなこと言ってないじゃないの! ガチャ。 ちょっと、あっ、切っちゃった。
トラさんったら、いくらお酒の上の空想話だからって、
前後に走ることに飽き足らず、左右に動くだなんて、未来の車の飛躍もいいとこ。
一体、どうしたらタイヤが横を向くの?
ステアリングを切る角度に限度があるとか、 横に動く全方位タイヤを作るにはコストがかかり過ぎるとか、
そんな専門的な話は置いておき、トラさんちゃんと帰ってこれるかしら、 また変装でもして戻ってくるかな。
助っ人来たらず、か。
いーか、よく聞くんだぞ、 エビの前後運動とカニの左右運動を合わせたら、無双の甲殻類になる。
生を受けた者、目標をそこに置くのが正しい進化だろう。
電気自動車とか燃料電池とか自動運転の派手な研究開発の前に、
横歩きする車ができれば庶民は嬉しい、それこそ未来の車。
勘違いするなよ、俺は別に走行中に横動きをしろ、と言っている訳じゃない。
縦列駐車やパーキングの時だけ、ゆっくりなカニ歩きができればいい。
スーツケースと同じ動き方しかできない自動車は無機質、 所詮は血が通っていないのか。
それを言っちゃおしまいよ。
タイヤが180度動くのが難しければ、 アンダーボディとアッパーボディだけが90度回転すればいい。
製造コストが初期に高かったのはハイブリッドシステムも同じ。
まずは造って世に浸透させていけば5年10年でコストダウンは叶う。
古くからのテーマなのに、今の技術力をしても叶わない遠い夢。
いいや、先端技術を装ったほうが世間から「いいね」が貰えるし、 金も稼げるから優先させるだけ。
結構毛だらけ猫灰だらけ!
地味な横歩きには投資したがらない、狭い呑み屋には未来の車は入ってこれない。
やはり、助っ人来たらず、か。
でもトラさんは夜半にフラっと帰ってきた。
お金持っていないはずなのに、どこかの課長さんにでも奢ってもらったのかしら?
機嫌を損ねたらしく、翌朝にはもういつもの革トランクを片手に持って出ていこうとする。
「さくら、長い間世話になったな、旅にでるよ」
トラさん、どこ行くの?
「カニはいつも横歩きじゃなくて、縦に歩く種もいる、タラバガニとか。
何を言いたいかって、実は横歩きできる未来の車が走る場所があるんじゃないかって。
旅立ってくるよ、そんな未来の車へ」
トラさんの空想って、もうどうしようもない。
どうしてそんな瘋癲なのかな、決まりきった現実にも筋があるのに。
「達者でいてくれ、あばよ」
そして、トラさんが片手を上げる。
私の説得は聞いてくれないから、 どこかのヒロインが偶然に店先に歩いてくることを願ってみる。
願ってみるけど、そんな瞬間の奇跡は起きるのかな。
未来の車は横歩きの機能を持つのかな、ドラマでもないのに。
「未来の車・プリウスは、ハイブリッド車界の小野道風さ」
パワースイッチを押して走り出す。
駐車場の暗がりから車道の日なたへ出ると、ケンは悪戯な表情をしてそう言った。
「何て言うのかな、今のガソリン車は燃料電池車・電気自動車へと進化してゆくよ。
その途中でさ、何でもそうだと思うけど、物事がはっきりと転調した瞬間ってあるよね?」
助手席から覗く彼の視線の先には、なんだか難しいコクピットモニターがある。
ディスプレイされているモーターとエンジンの難しい燃費情報も、
ケンにとっては爽やかに吹く春風のようで、いとも簡単に読みこなしてしまうのでしょうね。
「ちょっと変わったお話になる。
日本人が書いている書って中国の書道に近いけど、決して同じではないって分かるよね。
中国から輸入された書道が、長い歳月を経て、日本スタイル「和様」に変化して現代に至るんだ。
その和様の筆跡を遡るとね、これは日本の書道史ってことになるけど、
中世・平安時代の小野道風という人の書から、別物になっているんだ」
「今度は書道のお話?あなたは変わったお話を本当に一杯知っているのね」
ケンって不思議。
ある朝は飛行機が飛ぶ原理を語ったと思ったら、ある夜はペルセウス流星群のことを語るの。
今度は何?日本書道史のお話って、どこでそんな知識を得ているの?
「有名なお話さ!中国からの輸入物と、日本固有の書、その違いを確立したのが小野道風だからね。
海外の真似からの脱却、日本文化の自立、青が藍から生まれて青に変わってゆく。
そうだ、藍は青より出でて藍より青し。
真っ直ぐ突き立てる過酷な中国書より、優雅な日本の書道のほうが僕は美しいと感じるよ。
和様漢字の美の始まりは小野道風から、僕が興味を持ちそうなことじゃないか」
「それは分かるな~。でも書道とプリウスの共通点、未来の車との関連性って分かんないな~」
「1997年の終わりに販売されたトヨタ・プリウス。
ガソリン車全盛時代の今でこそ、まだ実感が沸かないけど、
近い未来には未来の車と呼ばれる燃料電池車か電気自動車が主流になって、ガソリン車は時代遅れになる。
まだ50年先のことだと思うけど、いつかみんなは振り返ると思うよ。
どこが昔の車と未来の車の境目なのか、って」
話を勿体ぶってケンが押し黙る。
会話が途切れると、エンジン音はかすかに聞こえるものの、とても静かな車内。
これがハイブリッドシナジードライブの醍醐味。
「それがトヨタ・プリウスなんだよ!
プリウスが未来の車との境目なんだよ!
書は小野道風、車はプリウス、過去から脱却し、未来を切り開いたパイオニアたち。
プリウスって、素敵な響きじゃない?
”プ”っていう、破裂音の子供じみた、やんちゃなところ、
”リウス”っていう音は品格を出していて、それでも高級過ぎない感じ。
通して”プリウス”って発音すると、なんとも未来を感じさせる、
ちょっと腕白で、クラシックでもあって、通して異質過ぎない魅力的な音だと思うな」
「ケン、プリウスっていう言葉の意味は何?英語ではないと思うけど」
「そうだよ、英語じゃない。プリウスって奇跡みたいだ。
ラテン語で”先駆ける”を意味するのが、”プリウス”なんだ。
もうこれってはまり過ぎ。これ以上ない、最高のネーミングじゃないかな。
未来の車を”先駆ける”のがプリウス。
商売を越えて、なんか神の符号みたいなものを感じるよ」
ご機嫌になったケンはEVドライブモードスイッチを押して、モーターだけの走行に切り替えた。
エンジン音がなくなり、モーターのみの静かなクルーズ状態。
「未来を先駆ける車、いいや、もうトヨタはプリウスで未来の車を先駆けたんだよ。
ハイブリッド技術は未来の自動車業界のメインキーワードだ。
この流れは燃料電池車につながって、車はCO2ではなく水だけを排出するようにある。
まぁ、昨今では電気自動車のほうが未来を掴む可能性が出てきてはいるけど。
あえて今、僕は宣言させてもらうよ、プリウスは未来の自動車界の小野道風だって!
きっと50年後に僕と同じことを言う専門家が現れるだろう。それが僕の老後の楽しみさ。
そう言ってケンは楽しそうに笑った。
未来の車を見越して、ケンは自動車に何を託しているの?
わたしも考えてみようと思った。
ガソリンから水素へとエネルギーが変わってゆく過渡期に生まれたハイブリッド車、
それって今までの大きな流れを断ち切る、未来の車の重要な変換期なのでしょう。
未来の車のはしりがプリウスだって、わたし、なんかそう思えてきたよ、ケン!