透谷と漱石の作品から読み取ることができるテーマや思想についての共通点と相違点を挙げてみる。
とりわけ、今回は透谷の「蓬莱曲」と漱石の「三四郎」を参考にしてみた。
第一の共通点に、世界への絶望がある。
蓬莱曲でところどころに散りばめられた、この世界に自分が楽しいと思うものはない、
というような世の中への諦めの言葉はそのままストレートに透谷個人が持つ世間への絶望を表している。
三四郎は世間や一般の人を「下等だ」などと卑下する発言を繰り返すが、これは彼の世界に対する蔑視の表れだ。
夏目漱石自身が世間を蔑視していたとは取らないが、世間の凡庸さに閉口していただろうと思う。
両者ともに、一般世間の暮らしでは満足できない何かを持っていたという共通点があるのだ。
両方の著者にこの想いが共通していることが、作品を創り上げる上での原点なのだと思う。
小説は現状への批判、批評から生まれることを考えれば、この共通点は重要だ。
第二に、女性を理想視する傾向が共通している。
蓬莱曲では露姫を情熱的に追い求める素雄の姿がある。
しかも物語では実在の露姫の姿ではなく、素雄は空想での露姫の姿に熱情をぶつけるのだ。
三四郎では美禰子に対して臆病でありながら理想を投影させている。
美禰子は実在するが、三四郎は遠巻きにするような感じで、あくまで憧れの世界のように見ている。
世の中に対して絶望ばかりしているなかでも、唯一心を寄せる存在が女性で、
しかもその女性に対しての想いが、現実的ではなく空想的で、理想視をしているという共通点がある。
それぞれ作品を書いた時代の事情があるのだろうとは思うが、
女性の具体像があまり描かれていないという共通点を思えば、両作者とも女性を神秘な存在と思う気持ちが強かったのだと思う。
第三に、世界は自分の望んだ通りにゆくものではないという結論にしていることで共通している。
途中までの流れはどうであれ、蓬莱曲では理想を追い求めた主人公は最後は自らを死に至らしめることで話を完結させた。
三四郎では、新しい時代の女性の姿を思わせた美禰子が結局は平凡極まりない結婚を選択することで終わる。
それぞれの時代に対する新しい流れの力を描いた作品が、最後の最後で共に安直な終末を迎える。
これは透谷や漱石が、己の描きたかった理想は所詮理想のままで、
実世界では叶うことがない夢であることを分かっていたからなのだと思う。
深く言えば、透谷も漱石も非現実的な空想家で、しかしそれを己で分かっていて、
その空想を己の心だけに仕舞うことができないのでこうして作品に吐き出すことで己のコントロールをしていたのだとも思う。
二人はこのように大きなテーマでは共通していたが、相違点もあった。
第一の相違点としては、その文体だ。
透谷はたたみかけるように感情を文章に乗せ、恋愛感情も隠さずにそのまま書きなぐった。
感情的な文章で作品を創り上げる作家である。
対して、漱石の文章には情熱というものを感じることが少ない。
総じて受身で、主人公の三四郎も己から何かをするような態度を取らない。
非常に淡白な文章という印象を受ける。
第二に、現実的に信じることができる存在があるかどうかだ。
互いに理想像に掲げた女性は別として、透谷の柳田素雄は琵琶という心の支えがある。
三四郎は自分がエリートだということは内心自慢に思っているようだが、
自分が輝くことができる場所をまったく持っていない。
これは作品上、大きな違いがでてくる問題だ。
何かに打ち込み、実際に琵琶というものを獲得できた素雄のような人間ならば、
理想の女性のことも成就できる能力や意思を持つ人だと思うことができる。
一方、三四郎のような理想ばかりの人間では、理想を叶える実力そのものが欠如しているのだと思ってしまう。
前者のほうが小説に奥行きがでてくるのだと思う。
余談だが、その心の支えの琵琶をも最後は投げ捨ててしまうという場面を出すことで絶望感をより高めることもできる。
第三に、理想追求の方法論である。
素雄は恋のことしか考えていない。恋だけがテーマの全てである。
三四郎にとっても、恋が最大のテーマであることに違いはないが、その他にもテーマがある。
上京した後、故郷を想う心の葛藤と、東京で初めて目にする様々な人の生き方にも不思議を感じる。
透谷はそのまま恋だけを全面に出すことで、恋愛の理想を追い求める分かりやすい物語を創り上げた。
漱石は人生の他のテーマを散りばめ、そのなかでもやはり恋のことが最大のテーマであると示すことで、
恋というテーマの重さを鮮やかにあぶりだした。
これは後者のほうが説得力があると僕は信じている。
青春文学 初恋で若者が無力ながらも成長していく過程がテーマ
夏目漱石の「三四郎」と、島田荘司の「夏、19歳の肖像」を比べてみる。
どちらの作品も、若者が恋におちるなかで、成長してゆく過程を描いた青春文学である。
まずはテーマでの共通点を挙げてみよう。
いずれも初恋をテーマに採り上げている作品であり、つまり女性の理想像、処女性を崇敬している。
どちらの作品でも主人公とヒロインの恋は結局結ばれない。
これは、若さの無力さ、無知さをテーマとしているからだ。
また、主人公の男性だけではなく初恋の相手も
本当は自分が一番進みたかった道を進むことができず、別の道に流される。
これは、人の意思や人智を超えた大きな人生の流れがあることを示唆しようとしたことで共通している。
テーマでの違いがある。
三四郎では故郷を懐かしむ姿を散りばめ、現在の暮らしのなかで
故郷という存在がどこに収まるかを模索することがテーマになっている。
島田氏の話では故郷についてはテーマにしていない。
また、三四郎は初恋の相手以外の人にも興味を覚え、その人たちの暮らし方や人生にも謎を感じる姿があるが、
島田氏の作品では初恋の人のみにスポットをあて、たった一人だけのことにテーマを集中している。
三四郎は田舎から都会に出てきたばかりの青年だから東京の街や東京の人間たちにも新鮮さを感じるが、
その中でも最大の謎を感じたのが恋愛である、という形で恋愛をテーマにしている。
島田氏の作品の主人公は、もともと都会の人間だから東京の街にはなにも感じることはないが、
そんないつもの街中で突然恋愛が芽生えることで、
恋愛に対する興味を飛躍的に大きなものとし、一転集中した恋愛をテーマとした。
作品の視線・方法にも共通点がある。
まず、女性と触れ合うことを通して人生成長を遂げる若者を描いているという両方の物語で最も基本的な筋で一致している。
また、三四郎は割合気軽に借金や金策をしたり、
島田氏の主人公はもらった札束を投げつけたりなど、金に無頓着なシーンを出すことによって、
金よりも別のことを追い求める若者というイメージをアピールするという方法も同じだ。
主人公と結ばれなかった女性は、それぞれ本当は幸せなはずなのに心の中で後悔をしている、
という姿を描くことによって、男性と女性とお互いのやりきれなさを演出する方法も共通している。
一方、違う視線や方法がある。
三四郎では初恋の相手と途中ではうまく結ばれそうな予感をさせるが、
結局は相手の女性が慣習やしきたりの色が強い結婚に走ってしまうという手段をとっている。
これはこの当時の時代背景を投影させた方法ではあるが、その視点からは島田氏の物語は作られていない。
島田氏はあくまで現在であり、個人の意思をつきつめている。
三四郎では、身辺に起こる様々な出来事に対して三四郎が自ら解決へと進んでいく展開にはしていなく、
三四郎自身ではなく周りが動くことで話を進めている。
しかし、島田氏の作品では主人公自らが動く展開によって話が進む。
主人公の行動は正反対といってもよいぐらいだ。
三四郎が持つ世界への見方は、己がエリート学生だったからか、世間を卑下している。
島田氏の主人公は正反対で、己の若さや無力さを知り、世間よりも自らの未熟さのほうを嘲っている。
どちらも若者にありがちの姿ではあるが、ここは両極端の若者を描くことになっている。
人物の性格や生き方にも共通点が見られる。
まずは両作品とも、若い主人公同士であるので人生に対して無知である。
無知ながらもそれにも負けずに人生を進んでゆく生き方である。
そして、これも初恋の者同士であるからか、女性に対してひどく臆病である。
女性に対して謎の部分を多く感じている。全体を通すと、
両者は若いながらも若いなりに己の人生を固めようと躍起になっている若者の生き方ということで基本的な共通点がある。
一方、性格に大きな違いもある。
三四郎は人生経験に乏しいながらもエリートであることを鼻にかけ、自信家だ。
島田氏の主人公は己の無力さを嘆き、自信がない。若者の自信の描き方が違う。
三四郎は自ら行動して人生を変えるという意欲がない。
与えられた人生をそのまま受け止めてしまうという人間だ。
他方は、自ら動く意欲があり、積極的な人間である。
若者の情熱の描き方が違う。
三四郎はエリートであるが己に絶対な自信を感じるものを持ち合わせていない。
島田氏の主人公は、自分に自信はもっていないのだが、バイクだけなら誰にも負けない自信を持っている。
これは、大きな違いである。
若者が何に夢中になるのか、若者に何があるのか、それに対する著者の考えが違うのだ。