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与謝野晶子のエロス、みだれ髪に女性美を投影させた短歌集

与謝野晶子の短歌は、感情の自由表現が抑制されていた明治時代において、
灰色のキャンバスに、オレンジ色の一線を描いたように、女性美という新しい存在を強烈に確立させた。

後世の評価はそんなところでまとまっていることだろう。
溢れる情報の波を泳ぐあなたには、枝葉の部分に思われるかもしれないけど、
情熱の歌人・与謝野晶子の短歌にプロデューサーがいること、気に留めて欲しい。

奇才の陰に忍んでいるプロデューサーが世に出てきても意味がない。

とはいえ、与謝野晶子のエロと短歌の起源を知ることが、与謝野晶子の理解につながるのなら、
私は拙い筆をとって、与謝野晶子の短歌のプロデューサーのことを残してみたいと願う。

与謝野鉄幹という男は、与謝野晶子の夫だ。
この与謝野鉄幹こそが、「みだれ髪」に代表される与謝野晶子の熱情とエロの根源。
鉄幹本人が意図していたかどうかは知らないが、極端に書けばこんな調子。

○与謝野晶子の心を惑わし、感情の渦に巻き込み、情熱の短歌を生み出すため、
妻子がいたにも関わらず、妻と晶子ともう1人の女性との3角トライアングルを作った。

○自分の短歌が売れず、晶子の短歌が売れたら、短歌の弟子でもある晶子の成功に嫉妬し、
与謝野晶子のその後の短歌にプレッシャーを与えた。

○自分は短歌の商売も成功しなくて、12人の子供がいる鉄幹・晶子の家計の役に立たず、
晶子が短歌を詠み続けなくてはいけない理由(生計のため)を作った。

○自分は成功もしていないのに、やることがないから、晶子にタカって費用を工面し、
当時にしては異例の欧州留学をさせてもらった。

ヒモか!意地悪なドS男か!
なんだか罵声を浴びせたいぐらいに、与謝野鉄幹は夫としては役に立っていないように見える。
理解あるあなたには通じるだろうが、しかし、夫婦の関係なんて他人には関係ない。
こんな関係でも与謝野晶子にとっては魅力ある男であり続けたのだろうから、
晶子は鉄幹の子供を12人も産んだし、生涯ずっと連れ添い、世界・日本各地を共に旅する。

短歌の面では一番最初のプロデューサーだけだったが、
その後は、晶子の内面にある才能を発揮させる役割として、プロデュースを続けた。

だからこの夫婦は二人で一体、晶子が情熱の歌人たる所以は与謝野鉄幹にある。
与謝野鉄幹なくして、与謝野晶子はなし。
夫婦の愛情のカタチはいびつだったが、晶子の才能を引き出したのは鉄幹ならではのこと。

 

与謝野晶子の短歌を読むべく、歌集「みだれ髪」を手に取ってみた。

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」

軽い現代語に訳してみればだよ、

「ねぇ、そこの真面目な坊や、どうして私の柔らかい肌を抱いてくれないの?
激しい恋を重ねなくちゃ、つまらないでしょ」

といった官能的・挑発的・エロスな恋の歌が「みだれ髪」にある。

これはオトナの女性が歌いあげた短歌なのだろう、と信じつつ調べてみると、
若干22歳、しかも明治時代の女性である与謝野晶子による歌と聞いて、
なんと言うか、短歌の内容と時代背景のギャップに驚いてしまった。

明治の女性像のイメージといえば、慎み深いことが美徳であり、
恋や性を表面に出すことなんて有り得ず、結婚は親の言いなり。

ましてや若干22歳の女性が、まさか上から目線で男性を挑発するなんて、
まるで想像できないこと、これは当時は事件になったはずですよ、奥さん!

そんな騒動の匂いを嗅ぎつけた私は、与謝野晶子の人生を調べてみた。
出てくる、出てくる、事件のカケラ。
いいや、「みだれ髪」の事件性以上に、 与謝野晶子の生き様こそが、最高の事件性を持っていた。


■妻子持ちだった与謝野鉄幹を、短歌のライバル・山川登美子と奪い合う
 ⇒略奪愛成功(でも数年後、鉄幹と登美子は不倫関係に)


■夫・与謝野鉄幹の短歌よりも、与謝野晶子の短歌が世間に評価される
 ⇒鉄幹のための短歌が、逆に最愛の夫から嫉妬される


■与謝野鉄幹との間に、12人の子を出産!


■倦怠期になったら夫を欧州へ留学させる
 (ついでに晶子も欧州旅行。当時では稀なこと)


斬新で、パワフルな生き方をした与謝野晶子に驚くばかり。
その上、情熱の歌人として、与謝野晶子は時代を切り開く短歌を残している。

地味だった明治の女性像に、美と恋の華やかさを。
刮目して読むべし、与謝野晶子の短歌の中のエロス。

情熱の歌人・与謝野晶子の短歌

与謝野晶子は情熱の歌人と呼ばれた女性。


その情熱は、一体何から生まれたものなのだろう?
歌集『みだれ髪』には次のような歌が詠まれている。

『おりたちて うつつなき身の 牡丹見ぬ そぞろや夜を 蝶のねにこし』


牡丹が咲いているところから連想すれば季節は春、
それも初夏に近付いてすっかり寒さの消えた晩春のことかな。

蒸し暑くもなく肌寒くもない夜の空気に陶酔したのか、
つい庭先へ出てみた晶子の目に、大形の花を開く牡丹が入ってきた。

本来、その光景は歌に詠まれることなく、晩春の夜の夢として終わるはず。
しかし与謝野晶子は、牡丹の上で休む一羽の蝶を見つけて、あるイメージを膨らませていた。

牡丹に甘えるように眠る蝶に、自分の元で夜を過ごす恋人の姿を重ねた晶子。
そして、蝶を引き付けている牡丹は自分自身だと感じた。

この歌が収められた『みだれ髪』が世に出てから100年。


21世紀の現代でこそ、この歌は抵抗なく私たちの心に入ってくるが、
この歌が詠まれた100年前の当時ではどうだったのかな。

同じシーンを目にしたとしても、晶子の解釈とは反対に、 あわれな蝶を女と思い、
蝶を自分の元に引き付ける牡丹の花にこそ
男を投影させる方が当時の常道だったのだろうと僕は推測する。

 

 

しかしこの歌では、明らかに牡丹は晶子であり、世の女性たち全般のこと


他の晶子の歌に出てくる花という花が全て晶子自身、
もしくは女性全体を指しているという事実。

当時の歌の世界では花という言葉は女性を表すのが通例だったことからも、意図は明白なのに。


牡丹と蝶の関係では、間違いなく主役は牡丹。
当時の恋愛感覚では、女が男を凌駕するものだと公言するのは一般的ではなかったはず。


本来の歌意は、恋人に逢えない夜のさみしさを歌ったものでしょう。
恋に落ちている時は何を目にしてもそれが恋の延長上に見えてしまう、
そんな女心が溢れているせつない歌だ。

夜の闇の中、庭に佇んで蝶の止まる牡丹を見ている与謝野晶子の姿には、
人を寄せ付けない迫力があったのだろうな。

鬼気迫る光景の歌から私が感じるのは、
じっとしていては身体中から溢れ出してしまいそうな与謝野晶子の情熱とエロス。

自分の魅力は、空中を自由に飛び回る蝶をも引き付けてしまうと歌った晶子。
大輪の花を知らず知らずのうちに自分自身と見立てている。

この歌からは、晶子の自分自身に対する揺るぎない自信が見えてくる
自意識過剰ということではなくて、単純に歌としてその自信が美しく聞こえるよ。

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コストコ大好きっ子

コストコが大好き!ショッピング、お花、猫 に囲まれたい。東京在住OL、30代既婚です